馬謖

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馬謖www.shan-machinery.comQuestion book-4.svgこの記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: "馬謖" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年4月)馬謖馬謖(清代『三国志演義』より)馬謖(清代『三国志演義』より)蜀漢越巂太守出生初平元年(190年)荊州襄陽郡宜城県死去建興6年(228年)5月拼音Mǎ Sù字幼常主君劉備→劉禅テンプレートを表示

馬 謖(ば しょく、190年 - 228年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての武将。字は幼常。荊州襄陽郡宜城県の出身。兄は馬良(四男)。その他の兄の名は不明。襄陽の名家であった「馬氏の五常」の五男(末子)。

生涯[編集]

劉備が荊州を支配するようになると、兄の馬良と共に従事に取り立てられた。

劉備の入蜀に随行し、益州平定後は綿竹・成都の県令・越巂太守を歴任した。

並外れた才能の持ち主で、軍略を論じることを好み、その才能を諸葛亮に高く評価された。ただ劉備は彼を信用せず、白帝城で臨終を迎えた際にも「馬謖は口先だけの男であるから、くれぐれも重要な仕事を任せてはならない」と諸葛亮に厳しく念を押したという。しかしながら「才器、人に過ぎ、好みて軍計を論ず」と、俊英な馬謖の才能を愛した諸葛亮は[1]、劉備の死後に彼を参軍(幕僚)に任命し、昼夜親しく語り合った。

建興2年(224年)春、建寧郡の豪族の雍闓らは西南夷の有力者の孟獲を誘って謀反を起こした。馬謖は「城を攻めるは下策、心を攻めるが上策」と諸葛亮に助言したため、これが七縦七擒などの作戦に繋がり、南征の成功と蜀の後背地の安定に寄与することになった。

建興6年(228年)春3月、諸葛亮は第一次北伐に際し周囲の反対を押し切って馬謖を先鋒に抜擢、彼に戦略上の要所である街亭(現在の甘粛省天水市秦安県)の守備を命じた(街亭の戦い)。諸葛亮は街道を押さえるよう命じたが、馬謖はこれに背き山頂に陣を敷いた。このため副将の王平は山を降りるよう再三諫めたが、馬謖は聞き入れようとしなかった。その結果、張郃に水源を断たれて山頂に孤立し、蜀軍は惨敗を喫した。

同年5月、諸葛亮は敗戦の責任を問い馬謖を死罪とした。諸葛亮は涙を流しながら処刑を命じ、これが後に「泣いて馬謖を斬る」と呼ばれる故事となった。

裴松之が注に引用する習鑿歯の『襄陽記』によると、馬謖は処刑される前、諸葛亮に宛てて「明公(諸葛亮)は私めを我が子のように思ってくださり、私も明公のことを父のように思っておりました。舜が鯀を誅しその子の禹を取り立てたように(私の遺族を遇し)、生前の交遊を大切にしてくださるなら、私は死すとも恨みはいたしませぬ」と手紙を書き残した。馬謖の遺児は処罰されることなく、以前と同様に遇されたという。

習鑿歯は『襄陽記』で、諸葛亮が馬謖を処刑して有用な人材を失ったことを批判している。

『晋書』陳寿伝によると、『三国志』の撰者である陳寿の父は馬謖の参軍であり、馬謖に連座して髠刑(コン刑、剃髪の刑で宮刑に次ぐ重罰だという)に処されたという。

小説『三国志演義』では、馬謖は司馬懿が涼州への赴任を志願し蜀への対策を行なっているという話を聞き、司馬懿が謀反を企んでいるという噂を流すよう諸葛亮に進言する。噂を信じた曹叡らが司馬懿を疑ったため、司馬懿は役職から外された。これを聞いた諸葛亮は出師表を上奏し、北伐を行なうことになる。

死についての異説[編集]

通説では馬謖の死は処刑によるものと見なされているが、以下の異説も存在する。

「亮、西県の千余家を抜きて漢中に戻り、謖を戮して以て衆に謝す」(諸葛亮伝)「丞相亮、既に馬謖及び将軍張休・李盛を誅し、将軍黄襲等の兵を奪う」(王平伝)「亮、進むに拠るところ無く、軍を退きて漢中に還る。謖、獄に下されて物故す。亮、これがために流涕す」(馬謖伝)「朗、もとより馬謖と善し。謖、逃亡し、朗、情を知れども挙げず。亮、これを怨み、免官せられて成都に戻る」(向朗伝)

「諸葛亮伝」「王平伝」では泣いて馬謖を斬るの故事どおりに処刑されたとあるが、「馬謖伝」に記述されている「獄に下されて物故す」は処刑ではなく獄中での死であると解釈する[2]。

脚注[編集]^ 陳舜臣監修『三国志ハンドブック』1998年、186頁。^ 「物故」については、「『誅之』の誤りではないだろうか(然疑物故是誅之二字之誤)」(周寿昌)、「馬氏の私的な書をそのまま収録し、書き直さなかったのだろう(蓋録馬氏私書而未改)」(銭振鍠)とする見方がある(盧弼『三国志集解』)。表話編歴陳寿著 『三国志』 に立伝されている人物魏書巻1武帝紀

曹操

巻2文帝紀

曹丕

巻3明帝紀

曹叡

巻4三少帝紀

曹芳・曹髦・曹奐

巻5后妃伝

武宣卞皇后・文昭甄皇后・文徳郭皇后・明悼毛皇后・明元郭皇后

巻6董二袁劉伝

董卓(李傕・郭汜)・袁紹(袁譚・袁尚)・袁術・劉表

巻7呂布臧洪伝

呂布(張邈・陳登)・臧洪

巻8二公孫陶四張伝

公孫瓚・公孫度(公孫康・公孫恭・公孫淵)・陶謙・張楊・張燕・張繡・張魯

巻9諸夏侯曹伝

夏侯惇・夏侯淵・曹仁・曹洪・曹休・曹真・曹爽・夏侯尚・夏侯玄

巻10 荀彧荀攸賈詡伝

荀彧・荀攸・賈詡

巻11 袁張涼国田王邴管伝

袁渙・張範(張承)・涼茂・国淵・田疇・王修・邴原・管寧

巻12 崔毛徐何邢司馬伝

崔琰・毛玠・徐奕・何夔・邢顒・鮑勛・司馬芝

巻13 鍾繇華歆王朗伝

鍾繇・華歆・王朗(王粛)

巻14 程郭董劉蔣劉伝

程昱・郭嘉・董昭・劉曄・蔣済・劉放(孫資)

巻15 劉司馬梁張温賈伝

劉馥・司馬朗・梁習・張既・温恢・賈逵

巻16 任蘇杜鄭倉伝

任峻・蘇則・杜畿・鄭渾・倉慈

巻17 張楽于張徐伝

張遼・楽進・于禁・張郃・徐晃(朱霊)

巻18 二李臧文呂許典二龐閻伝

李典・李通・臧覇・孫観・文聘・呂虔・許褚・典韋・龐悳・龐淯・閻温

巻19 任城陳蕭王伝

曹彰・曹植・曹熊

巻20 武文世王公伝曹昂曹鑠曹沖曹據曹宇曹林曹袞曹玹曹峻曹矩曹幹曹上曹彪曹勤曹乗曹整曹京曹均曹棘曹徽曹茂曹協曹蕤曹鑑曹霖曹礼曹邕曹貢曹儼巻21 王衛二劉傅伝

王粲・衛覬・劉廙・劉劭・傅嘏

巻22 桓二陳徐衛盧伝

桓階・陳羣・陳矯・徐宣・衛臻・盧毓

巻23 和常楊杜趙裴伝

和洽・常林・楊俊・杜襲・趙儼・裴潜

巻24 韓崔高孫王伝

韓曁・崔林・高柔・孫礼・王観

巻25 辛毗楊阜高堂隆伝

辛毗・楊阜・高堂隆

巻26 満田牽郭伝

満寵・田豫・牽招・郭淮

巻27 徐胡二王伝

徐邈・胡質・王昶・王基

巻28 王毌丘諸葛鄧鍾伝

王淩・毌丘倹・諸葛誕・文欽・唐咨・鄧艾・鍾会

巻29 方技伝

華佗・杜夔・朱建平・周宣・管輅

巻30 烏丸鮮卑東夷伝

烏丸・鮮卑・夫餘・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・韓・倭

蜀書巻31 劉二牧伝

劉焉・劉璋

巻32 先主伝

劉備

巻33 後主伝

劉禅

巻34 二主妃子伝

先主甘皇后・先主穆皇后・後主敬哀皇后・後主張皇后・先主子永・先主子理・後主太子璿

巻35 諸葛亮伝

諸葛亮(諸葛喬・諸葛瞻・董厥)

巻36 関張馬黄趙伝

関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲

巻37 龐統法正伝

龐統・法正

巻38 許糜孫簡伊秦伝

許靖・糜竺・孫乾・簡雍・伊籍・秦宓

巻39 董劉馬陳董呂伝

董和・劉巴・馬良(馬謖)・陳震・董允(陳祗)・呂乂

巻40 劉彭廖李劉魏楊伝

劉封・彭羕・廖立・李厳・劉琰・魏延・楊儀

巻41 霍王向張楊費伝

霍峻(霍弋)・王連・向朗(向寵)・張裔・楊洪・費詩

巻42 杜周杜許孟来尹李譙郤伝

杜微・周羣・杜瓊・許慈・孟光・来敏・尹黙・李譔・譙周・郤正

巻43 黄李呂馬王張伝

黄権(黄崇)・李恢・呂凱・馬忠・王平・張嶷

巻44 蔣琬費禕姜維伝

蔣琬(蔣斌・劉敏)・費禕・姜維

巻45 鄧張宗楊伝

鄧芝・張翼・宗預(廖化)・楊戯

呉書巻46 孫破虜討逆伝

孫堅・孫策

巻47 呉主伝

孫権

巻48 三嗣主伝

孫亮・孫休・孫皓

巻49 劉繇太史慈士燮伝

劉繇(劉基)・太史慈(太史享)・士燮

巻50 妃嬪伝武烈呉皇后謝夫人徐夫人大帝歩皇后大懿王皇后敬懐王皇后大帝潘皇后廃帝全皇后景帝朱皇后昭献何皇后末帝滕皇后巻51 宗室伝

孫静・孫賁・孫輔・孫翊・孫匡・孫韶・孫桓

巻52 張顧諸葛歩伝

張昭(張承・張休)・顧雍(顧譚)・諸葛瑾・歩騭

巻53 張厳程闞薛伝

張紘(張玄)・厳畯・程秉・闞沢・薛綜

巻54 周瑜魯粛呂蒙伝

周瑜・魯粛・呂蒙

巻55 程黄韓蔣周陳董甘淩徐潘丁伝

程普・黄蓋・韓当・蔣欽・周泰・陳武・董襲・甘寧・凌統・徐盛・潘璋・丁奉

巻56 朱治朱然呂範朱桓伝

朱治・朱然(朱績)・呂範(呂拠)・朱桓(朱異)

巻57 虞陸張駱陸吾朱伝

虞翻・陸績・張温・駱統・陸瑁・吾粲・朱拠

巻58 陸遜伝

陸遜(陸抗)

巻59 呉主五子伝

孫登・孫慮・孫和・孫覇・孫奮

巻60 賀全呂周鍾離伝

賀斉・全琮・呂岱・周魴・鍾離牧

巻61 潘濬陸凱伝

潘濬・陸凱

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是儀・胡綜

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